That Means A Lot

幻想とじゃれあって 時に傷つくのを あなたは無駄だと笑いますか?

洛中プラトニック

4年前、関西に住むことが決まったとき、京都が電車で1時間ちょいで行ける近さであると気づき、僕は毎月修学旅行よろしくコロナ禍でのリフレッシュと謳いながら京都の寺院を巡ろうと決めた。この決断は自画自賛に値する。

一方同じく4年前、「苦手な都道府県は?」というアンケート結果を記事にしたネットニュースがあった。

j-town.net

だいたいは東京か大阪で割れているにもかかわらず、千葉県は唯一京都と答えているのは興味深い。理由はこの記事では触れられていないので推測の域を出ないのだが、京都と千葉に歴史的因縁など皆無。むしろ交わってこなかった世界線。しかしこれこそが理由なのかもしれない。日本史で出てくるのは平将門伊能忠敬くらいの東京の属国としてみれば、京都は日本史の中心の異世界。都に足を踏み入れるのは丸腰の雑魚が迷い込むようであまりに恐れ多い。「どうせ見下されそうだからこっちから嫌ってやろう。」そんな魂胆だろう。

 

京都は鉄道も道路も幹線は下の方を少しなでる形で通過する。新幹線では停まる直前にトンネルを抜けると鴨川と幾つかの寺院が見えるが、高速道路だとほぼ何もわからない。京都駅を降りてみれば、でっかいカドケシのような駅ビルに、でっかい蝋燭のような京都タワーのコンビ。これぞ今日の羅城門。尚更「異世界」の入り口感を醸し出す。

一方大阪方面から上洛するには私鉄を使う。阪急は西京極を過ぎたあたりで地下に入り、終点の河原町まで潜ったままだ。階段を登れば四条河原町の交差点。高瀬川先斗町も鴨川も四条大橋南座も目の前。つまりいきなり異世界ど真ん中。観光客感丸出しの大きなカバンも持つ必要もなく、トートバックひとつ手にチョイと遊びに来た感じを醸し出せば、そこらの関西人に擬態できる。意外とイケるかもしれない。以前も書いたかもしれないが街は街でしかない。それは千年の都であろうとも変わらず、意外と京都も来るもの拒まずなのかもしれない。うまく異世界に潜り込めたのが嬉しく、文字通り暇さえあれば歩きで、クルマで、自転車で、いろんなところに行った。すっかり魅了され関東に戻ることになったらこの経験を生かし、京都のおすすめスポットのブログでも書こうと思っていた。

正伝寺。デヴィッド・ボウイが好きだったお庭。

それから3年が経ち転職で関東に戻ってきた。職場の年下の先輩に金閣小学校卒の京都人がいるので、金閣寺から少し北に行ったところに正伝寺という比叡山を借景にしたとてもいい庭がある寺院があるんですよねと話したら知らないと言われた。その一方で近くにある美味しいケーキ屋は知っていた。「よくそんなところを!あそこ美味しいですよね!詳しいですね!」途端返す言葉に窮す。Google Mapで星がたくさんあったからなんて言えない。

ガイドブック、森見登美氏をはじめとする小説、デヴィット・ボウイの伝説…。様々な資料に載っていたところは粗方行ってはいたが、媒体から得た知識に肖っただけというのは最大の知ったかぶり。百聞は一見に如かずとは言うが、誰かが良いと言った場所やモノに乗っかって上部だけを撫でているだけなのだということはわかってはいた。いや京都なのだからたいていの場所は何かしらの媒体に載っているだろうとは思うものの、自分で見つけたわけではないのは事実。モグリなのだ。そもそも丸腰の雑魚が京都人に京都の話をするなんてそれこそ1500年早い。向こうはそんなこと一切思ってないかもしれないがこっちは穴があったら入りたい。なるほどこれがアンケートの結果に…。

京都というのは南の島の観光地のように観光客と観光業の人だけが浮かれて暮らすような街ではない。たとえ千年の都であろうと今でも150万人近い人々が暮らす都市でもある。そこに住む人は四季だけではなく日々変わりゆく季節のひとつひとつの変化をなんとなく感じながら生きていて、何もない土地から来た人間にはそのなんとなくのレベルが高いように思えてしまう。寺も神社もおいしいパン屋もうどん屋だってまず地元の人のためにあり、それが何百年単位で積み重なった、これこそが古都の重み。川端康成がそれを探求すべく執筆のためにわざわざ住み込んだような土地だ。何度訪れようとも、たとえ明日から住んでもそうそう敵うわけがない。

北野で桜より梅のほうが好きかもしれないと気づいた

それでも僕は京都に片想いをしている。むしろのその恋心は離れて暮らせど積み上がるばかりだ。通りから一本入った路地を歩きながら、都に住まう人の生活模様を想像しながら歩く。職場の京都人をみればさして変わらぬ生活を送っているのかもしれないが、この異世界にあるものはどこか特別に見えてしまう。庭園は洗練され、夜の先斗町は妖艶で、雑貨店は軒先に置かれている持ち出し自由のガラクタのような食器ですらもセンスの塊だ。愛ならば悪いところに目を瞑るが、アバタもエクボだから片想いで、別に振り向いてくれなくたって良い。

僕が関西にいた3年間はまさにコロナの3年間だったから、飲み屋に行けるようになったら横の人と話しておすすめの場所でも聞こうと意気込んでいたが、そんな社交性はなく酒も強くないことを思い出した。それでもこの異世界にたくさん行ったから、少し熟れた顔で鴨川沿いに座れるようになった。近いうちに京都のオススメスポットを紹介する記事を書きたいとは思う。