That Means A Lot

幻想とじゃれあって 時に傷つくのを あなたは無駄だと笑いますか?

俺らのために勝て

 

Vinci per noiという言葉がある。イタリア語で「我らのために勝て」という意味で、アタランタインテルセリエAのチームのチャントやコレオで目や耳にする。日本だとガンバ大阪がチャントの歌詞に入れていたりもする。

先日ふと、この「Vinci pe noi=我らのために勝て」のニュアンス・表現に日本語離れしたものを感じた。たとえば日本のウルトラスが気合の入る一戦の前がダンマクを用意するのなら、「共に戦おう」や「俺たちがついている」といった表現になりがちであろう。一方でこの「おい。勝てよ。だれのために?俺らのためにだよ」というような言葉ヅラは、やや傲慢さすら感じる。そのどちらが良いとか悪いとか話ではなくて。

なにかと区別をつけないように働きかける流れがある一方で、なお一層の分断も進みつつある世界でもある。そのなかでさらに無理くり白黒をつけなきゃ納得できない人が増えているというから生きづらい。けれどもこの世界は灰色でできていると言ってもいいくらいに、さまざまな事情が絡み合ってねじれにねじれてどうにもならないことばかりだ。それらはフットボールが教えてくれていて、高騰する放映権、アヤシイ政府系ファンドによる買収、サッカー協会の腐敗。10人の相手に負ける、ゴール前にバスを止めたチームが支配率20%で勝つことなんてザラ…。グレーの世界で成り立っているうえ、理不尽だ。試合もコストパフォーマンスでいえば悪い部類だろう。野球のように投球間におつまみを口に運べる時間もなく、バスケットボールのように点がたくさん入るわけでもない。90分+アディショナルタイム+場合によっては延長戦とPK戦と、短くない時間を一喜一憂ヤキモキドキドキして過ごした挙句、負けたり勝敗がつかなかったりする。こっちがどんな思いで駆け付けたとしても-恋人と初めて行くスタジアムだったり、片道5時間かかったアウェイだっとしても、会社を休んだとしても-一切御構い無しなのだ。

物心ついたころから柏レイソルを応援して20年以上。酸いも甘いも共に味わってきた。今は関西という離れたところにいれば隣の芝は青々だ。屋根のあるスタジアム、スマートフォンをかざすだけで入れるチケット(家に忘れるというリスクがないのが何より)、かっこいい選手紹介映像、気の利いた広報、ヨーロッパ仕込みの最新スタイルのサッカー…キリがない。’21シーズンのパナスタでのガンバ戦のように中身のない90分を見せられて負け、シーズン途中から主力が流出し、降格筆頭候補に挙げられ、何度口にしたかわからない「もう見ない」「もう行かない」。ところが'22シーズンは蓋を開けてみれば、そこにあるレイソルのサッカーは最新鋭のポジショナルプレーでも、華麗なるパスサッカーでもないにしてもそれでも身体を張って、しっかり走って、球際で勝つ。その姿に心を打たれた。ひさびさに絶対に勝てよと力が入った。勝った時の喜びは言うまでもない。これがギャンブルならもう依存症だろう。

きっと僕の血は真っ黄色ではないにしても、他の人よりは黄色い。柏レイソルは完璧ではないかもしれないが、僕だって完璧ではない。そうであれば互いに受け入れようではないか。これは「大きな愛」であり、決して妥協や諦めではない。宿命と言うには仰々しいが、この歳になって何者にもなれていない者が誇りに思うのは、これまで捨て切れなかったモノたちだ。

ここで最初のVinci per noiに話が戻る。きっとミランアタランタインテルだって完璧なクラブではないはずだし、応援してる人たちだって完璧ではないはず(失礼な話だが)。それらは先刻承知でそのうえでとにかく勝ってほしいのだ。誰のために?俺らのために。これは決して傲慢な表現ではなく、たとえばお化粧をした妻にステキだねというような愛の言葉。とあるチームを応援する奴らの関白宣言。負けたら負けたでその結果を納得せずとも(時には無かったことにすること)受け入れて、次は勝てよと。次も勝たなかったら?その次は勝て。試合があるならとにかく勝て。てのひらを回しすぎてねじれた手で抱きしめよう。これが愛の形であり、スタジアムに集うは愛の軍団だ。

柏レイソル30周年、おめでとうございます。そしてこれからもひとつでも多く、俺らのために勝て!