That Means A Lot

幻想とじゃれあって 時に傷つくのを あなたは無駄だと笑いますか?

F1を見てきた

 「これが私のアナザースカイ」なんて大層なものではないが、自分の心の中の原風景というものが3つあって、ひとつは生まれ育った柏の沼南町の工業地帯の黄昏時。ふたつ目は祖父母の家がある加賀市の北陸の冬のドンヨリとした曇り空と濡れた路面、みっつ目は秋晴れの鈴鹿の空だ。

 朝晩は寒く日中は汗ばむ陽気、耳をつんざくようなエンジン音、オイルとタイヤの焦げるニオイ、遊園地をかいくぐってサーキットエリアへ繋がるグランドスタンドへのトンネル。秋晴れの鈴鹿。それはF1日本グランプリの枕詞。高くなった空、うろこ雲、キンモクセイの香り、人々が秋を感じる時、僕は鈴鹿という場所に限定して思いを馳せる。原風景のふたつは自分の故郷に関するものなのに、数回しか行っていない鈴鹿にここまで深く思い入れがあるのは、我ながら滑稽だ。

 そんなに思い入れがあるなら自分で行けばいいんだと、売れ残りのチケットを買って、F1の「え」の字がわかった妻を連れて行って、台風と睨めっこしながらワンデーグランプリであっという間に過ぎたのが2019年。あれから3年。日本中のF1ファンがずっと焦らされていたし、僕もそのうちのひとりだ。チケット争奪戦に本気で挑み、金曜日の有休も確保すべく2ヶ月前から会議の予定をずらし、10月に入ってからは心が先に鈴鹿に行かないよう抑えるのが必死だった。全ては秋晴れの鈴鹿を浴びるために…。

 しかし終わってみれば、あれほど恋い焦がれていた秋晴れの鈴鹿を浴びることができたのは、土曜日の1日だけだった。そして一週間たった今週末は見事な秋晴れで、窓から見える青空を睨むようにしてこの文を書いているわけだが、素晴らしい3日間だったことは揺らがない。それはたとえ事故渋滞にハマってFP1がみれなくとも、名古屋の駐車場代が自分の宿泊代と同じくらいしても、レースが半分しか見れなくても、なんでチャンピオンが決まったのかわからなくてもだ。矢のように突っ込んでくる現実離れした造形のF1マシンに、シフトダウン、シフトアップと共に聞こえるエンジン音、縁石に乗ったべべべべ…といった音、そしてそれをコントロールする20人のF1パイロットと、それを支える人たち。この異世界F1サーカスとはよく言い表したものだ。これを感じることができた時、3年ぶりの思いが高じて鼻の奥がツンとなった。フジテレビのF1総集編では今も昔もやり過ぎなポエムを読み上げるが、そんな詩を詠みたくなる気持ちも理解できた。F1というこの世界は心を揺さぶり、日頃のサラリーマンの仕事では真っ先に切り捨てる「感情」が呼び起こされるのだ。

 決勝レースは2時間の赤旗中断。雨雲レーダーを見ても止みそうになかった雨が弱まってレースが再開できたのは、ここに書いたようなメンドクサいほどの思いを抱えた延べ20万人の思いがあったから。そう書けば聞こえは良いかもしれないが、もはやそれは思いというより、もはや「怨念」だったはず。『3年も待ったんだぞ!こんなんで終わってたまるか!』延べ20万人見たのなら延べ20万通りの思い入れがあり、この思いを胸にをじっと待ち続ける。これが35年前から芽生えたF1観戦の文化なのだろう。

 なんてかっこよく書いているが、僕は諦めて帰ろうとゲートを出たところでレース再開を知ってダッシュで戻ったのだ。去シーズンの最終戦で「勝負は最後まで諦めないこと」の重要性を学んだけれども、それはお天道さまに対しても同じなのだと学んだ。すべて自分たちで計画して行った鈴鹿は初めてだったから少し余裕が足りなかったのは反省という名の言い訳。来年からは赤旗中断になったら真っ先に観覧車に乗りに行こうと思う。角田と共に強くなって戻ってこよう。

【その他、来年は鈴鹿へ行こうかなという人がいたら】

・電車なら、行きのアクセスは鈴鹿サーキット稲生駅で良い。ただしICは使えない

名古屋駅の券売機は新幹線口の横は混むから他のところへ

・帰りのアクセスは駅まで歩く余裕があるなら平田町まで歩くと確実。徒歩30分くらい

・タクシーに乗りたいなら見つけた時に手をあげよう

・雨予報なら長靴は必須。雨合羽の上下がないのならよりポンチョの方がいいかも

・生ビールは望めない

・お風呂上りにはストレッチを

・とにかく楽しんだ者勝ち。鈴鹿で使うお金は気にしないこと