2021年のF1シーズンが始まる。
過去これほどまでにF1の開幕が楽しみであったシーズンはない。
僕は両親の影響でF1を好きになったいわゆる二世F1ファンである。両親はアイルトン・セナを応援していたという。自分が物心ついた頃から周りにはF1があり、エディ・アーバインのことをアーバンバーと呼んで応援していたとか。小学生のころ初めて買ってもらったF1ゲームは2001年シーズンのPS2ソフトで*1、学年で唯一話がわかる友達とかなりはちゃめちゃにやりこんだ。その頃のF1はホンダが2チームにエンジンを供給し、翌年からはトヨタも参戦。ドライバーでは佐藤琢磨。タイヤはブリヂストン。F1サーカスには常にジャパンパワーがあった時代だ。
やがて皇帝ミハエル・シューマッハの時代が終わり、誰が勝つかわからないという混沌とした−それは観ている人にはとても好ましい-シーズンが続き、スーパーアグリにも夢を乗せた時代。当時の中学生の僕は毎週のグランプリはもちろん。物置に眠っている90年代初頭のF1ブーム期の総集編ビデオも雑誌もすべて見た。学校で一番のF1バカだったはず。しかしリーマンショックからの不況の嵐でホンダもトヨタも撤退し、小林可夢偉の2012年鈴鹿での3位表彰台はまさに滅亡寸前の最後の星の輝き。バブル期にカネと技術で一世を風靡したジャパンパワーの火はついに途絶えた。その後ホンダは何度目かの帰還を果たし、マクラーレン・ホンダの復活の発表の時は大学でクルマ好きの友達と騒いだものだが、その最強の名前がテールエンドに沈んだのはショックだった。
それでもトロ・ロッソへパワーユニット供給先をスイッチしたあと、翌年はレッドブルにも供給し、「負けるもんか」のホンダスピリットでエンジン大革命後のF1銀河帝国のメルセデスの天下に挑んでいる。応援する対象の有無だけでも楽しみは違うが、やはりレースはトップ争いをしてナンボの世界。勝つかどうかで手に汗を握る時の面白さは別格である。ジャパンパワーの火がまた少しずつ灯りはじめたのを実感した2019年の台風一過の鈴鹿。自分のお金で初めてチケットを買ったF1。すでに私は社会人であり、横には妻がいた。
それでも日本人ドライバーは現れない。気づけばスーパーライセンスの発給条件も変わっていた。F2で夢破れる日本人ドライバー、ホンダの撤退…。もうF1の舞台で日本人はみることができないのではとすら思ったときもあった。そんな中現れたのが角田裕毅である。久々の日本人ドライバーは159cmのハタチ。身長も年齢も一番小さい。何より僕より年下であることに驚きを隠せない。かつては当たり前だと思っていた「ジャパンパワー」であったが、実に7年ぶりの日本人F1ルーキーというその事実が、いかにF1がいろんな意味でものすごい世界であること、そしてどれほど開幕が楽しみになるかを教えてくれた。
詳しい経歴は他の記事でもたくさんあるだろうが、ベッテルやフェルスタッペンを輩出したレッドブルの育成ドライバーに選ばれ、ブラック企業のような激しいプレッシャーに晒されながらもF3、F2をそれぞれ1年で「卒業」し一気にF1のシートを射止めた。乗るのはアルファタウリ。レッドブルのチームなのでルーキーであろうと結果が求められるであろうが、彼のF2で堂々たる戦いぶりをみると、『角田は違う。やってくれるはず』*2。そう期待せずにはいられないのである。
いまのF1が面白いか?と聞かれるならば「昔の方が面白かった」と答える。マシンは性能差も図体もデカすぎるし、エンジン音は甲高い方がよかったし、誰が勝つか最後までわからない方が楽しい。でもそれは30年も40年も前からずっと言われている一種のお決まりごとみたいなもの。そのあとに付け加えるとすれば「数年前より面白くなってきている」ということだろう。絶対王者のハミルトン擁する銀河帝国メルセデスに挑むという構図はわかりやすいし*3、今年だけだが応援すべきチームだけでなく、ドライバーもいる。F1中継自体も、数年前に母体が変わり無線、テロップ、過去の映像を積極的に採用し、面白く見せようという努力が随所に感じられる。莫大なカネと技術がかかる競技だが、いくら超人的であっても結局はニンゲンの対決であることがわかって、少し見え方も感じ方も変わってきた。(歳のせいか?)
いまはDAZNでも観ることができる。テレビ、スマホ、PC、タブレットでJリーグ、海外サッカー、プロ野球が見られる黒船でF1も見られるというのは、敷居を下げることに一役買っているはずだ。功労者たちのことを悪くいうつもりはないが、それまではスカパーに加入してフジテレビのCSで還暦まわりのオッチャンの話を聞く…。というのはやはり敷居が高かったと思う。放送席のクオリティは安かろう悪かろうな時があるのは目を瞑って、興味を持った方はぜひ見て欲しいものだ。