That Means A Lot

幻想とじゃれあって 時に傷つくのを あなたは無駄だと笑いますか?

「推し、燃ゆ」を読んだ感想文を書く

「推し、燃ゆ」。卒論にアイドルオタクを扱った僕にとってはタイトルからして読みたい本であった。しかし下鴨納涼古本市で200円で手に入れたハード版の「細雪」を半年も持ち歩いた反省から文庫本以外は持ち歩かないと決めていたので、文庫化を待ちに待ってそして忘れた。そんなある日、妻が文庫本を買ってきてくれた。

あらすじは金原ひとみさんの解説から引用させてもらうと、

本作の主人公は、アイドルグループまざま座に所属する上野真幸を推す、高校生のあかり。バイト先ではミスが多いためあかちゃんと呼ばれ、学校でも成績が悪く、家庭でも怠け者扱いをされている。バイト代はほぼライブチケットやグッズに充て、推しを推すことでままならない日常をなんとかサバイブしていたが、推しがファンを殴り炎上。少しずつ歯車が狂い始め、終盤にかけて極限のカタストロフへひた向かう。

カタストロフというのは悲劇的な結末のことを指す。言うならば芥川賞的顛末だ。

こういう物語を読んだとき「自分が当てはまるか否か」というのは、感想に大きな影響を及ぼすと思う。僕には推しがいるが、一方他の生活を取り返しのつかないほど蔑ろにしたこともない。その点では「自分はこんなんじゃ無い側」なのだろうが、果たして「自分はこうはならない」からと蔑んで笑い飛ばすこともできない。

「推し活」が叫ばれて久しい。最初は『オタクをすること』を新たに指す言葉と思っていたが、実際は自分の好きなモノを見たり楽しんだりすることで、自分の人生のクオリティを上げましょうね〜というひとつの自己啓発みたいなモノ。なるほどたしかに自分と推しを切り離して"自分ありきの推し"とするから分別がきく。…いやそれでいいのか?


かく言う僕も多趣味で、それはまるで先発ローテーション制度を取り入れているかのよう。あかりが背骨に例えたものを、僕はコピー機のトナーのように取り替えている。もちろんそのひとつひとつに思い入れはあって、今まさに「推しが燃えている」状態の宝塚歌劇は…たしかに残念だし、変化は必要だとは思う。でも野次馬的観点からのテキトーな意見に対しては「あの煌びやかな世界の土台は凡人にはできぬ努力と汗でできてるんだ!素人は黙っとれ…!」と腹を立て、こういうときこそしっかり応援するべきだなと保守的な考えに走ってゆく。この思考回路はあかりと近いはずだが、僕の場合はその20分後には見たいサッカーの試合のキックオフが迫っていたりする。


ローテーションを組むと経済的にも時間的にも限界があり、それが諸々の歯止めとなっているところがある。歯止めをかけることも、「推し活」も、処世術としては良いのだろうが、生き様として美しく無い。一方どんなに汚い部屋にあれど、あかりの推し方(=生き様)は色に例えるなら混じり気のない純色だ。その鮮やかさは僕なんかに比べりゃ雲泥の差で(どちらを雲としどちらを泥とするかは捉え方次第だが)、その健全なあかりのスタンスは、P75からはじまる次の分にもあらわれている。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客先には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定の隔たりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。推しを推すとき、あたしという全てをかけてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

日常生活の崩壊という芥川賞的顛末に目が行きがちだが、あかりの推し方は、狂った片思いでも、認知を求めるのでも、「推し活してるワタシが好き!」という自己顕示欲に塗れてもいない。推しそのものに生き甲斐を見出すその姿はむしろ理想の境地であり、究極の単推しは『武士道』ならぬ『推し道』と言うべきか。推すことや応援することに「こんだけ応援してるんだから…!」と見返りを求めないことがどれだけ難しいことか。普通はビートルズも歌うように、与えられた分と受け取る分の愛の量は同じなのだから。

結局、趣味のローテーションとかカッコつけたことを言うが、結局は究極の単推しになれなかった中途半端の成れの果て。主人公のあかりにとっては、僕もそうだし、「推し活」を謳って資本主義に取り込んでる奴らも、理解できない側にあるだろう。しかし推しにすべてを捧げない処世術は、まっとうに生きるしかない凡人のやり方であって*1、すべてを捧げることのできない人がやることなのである。あかりのような人間のうち、ほんと一握りの人はその極めた道を世のため人のため役立てることができるのだろうが、大方は埋もれてゆくのだろうか。なんたる不条理。それでもこの物語のような推しへの悲壮的なまでの忠誠は、応援する者としてのひとつの理想の背骨として崇めてゆきたい。

しかし、あかりの推しの上野真幸はアイドルとしてはなかなかのクソ野郎だと思う。まっすぐな子ほどこういう奴に引っかかることは、意図した表現なのだろうか…?

*1:こうやって偉そうに感想を書いて、糧にすることもそう