That Means A Lot

幻想とじゃれあって 時に傷つくのを あなたは無駄だと笑いますか?

日記をつけはじめた

新しいことをはじめたいとか、なにか買いたいなとか思った時、それを実行するかどうかの指標のひとつに、「ほかのところでその情報を立て続けに目にするか」という私の中でのややデタラメな基準がある。

今回の対象は「日記」である。日記なんぞ流行り廃りなど存在しないようなトラディショナルなコンテンツだが、ここ数週間で別の形-今回で言うとインスタで後輩さんがはじめているのと、最近読んだ森見登美彦氏のエッセイ-で立て続けに目にした。あまのじゃくなところがあるくせに、変なところで思い込みが激しかったりするので、このようなことがあると「何かのお告げだ!」という思考から、実行に移すか否かの理由を探しに行く。もう少し具体的にするのであれば、メリットとデメリットを比較し、しんどいか楽か、お金と時間はあるか、やって後悔かやらなくて後悔か、という自分会議を開催する。この行き当たりばったりな方法において、今後生きる上でどう実りのある時間を作り上げるか、そのコツについて議長(もちろん自分自身なのだが)はこう語る。「まぁフレキシブルな対応が求められますね。あれこれ手を出せば金と時間がいくらあっても足りなくなっちゃうし。僕みたいな多趣味な人は特にね。でも何にもゴーサインが出なければ、何も変わらない退屈な日々になっちゃうし。」

モノを書くのは高校のころの現文の授業で書いた感想文が優秀作的扱いで皆へ配布されるプリントに掲載されてから好いている。ブログは学生のころからぽつぽつやっていたが、書くのは基本趣味の話だった。しかし自分自身もサラリーマンとなって趣味に割ける時間が減り、さらにコロナ禍ではネットの海に垂れ流した駄文が突如釣り上げられ、火を焚かれるおそろしさが増していると感じる。小心者の私は必要以上に縮こまっているのではないか。思い切って遊べない今でこそ、同じような色の抜けた日々をこれ以上増やさぬためにも、些細な幸せや愚痴などを書いて、色を戻していくことが必要と考え、この提案を可決した。

そう決心してはや2ヶ月弱。とりあえずは毎日続けている。日記なんて小学校の頃の夏休みの宿題の絵日記以来であったが、「いいね!」への承認欲求に、モノを書くことへの気持ちが勝ったことを実感できるのは素直にうれしい。

日記はノートに書くではなく、Day Oneというアプリを使っている。課金ありきで考えられているアプリだが、課金なしでも十分な日記はつけられる。ノートに手書きで書くことと違い、写真も位置情報も記録されていくので、どこに行ったかを忘れないで済む。さらに書き上げた後に「○日連続」と出てくるのだが、これがなんか嬉しくなってしまう仕組みなのだ。課金もしていないユーザーに対しても、それも誰にも見せないところに文を書いているにもかかわらず褒めてくれるというのは、優しいもんである。

「さらにお金は必要らしいんですが、自分の日記が本にもできるらしいですよ。これは1年間続けられたらやってみようと思います!」議長はこのように語り、今日という日に彩りをつけていくのであった。